住職になりたいママのブログ

住職を目指している二児の母です。

お経って何が書いてあるの?~自我偈(じがげ)~

お坊さんは、何をするのが仕事でしょうか?

そんなことを聞かれたら、ほとんどの人が「お経をよむ!」と答えるのではないでしょうか。

今までは裏方の仕事・・・草刈りやら掃除やらのことを書いてきましたが、お経をよむことは、お坊さんの大切な仕事のうちの一つです。

日本昔ばなしなどで、『なんまんだぶ なんまんだぶ・・・』とばかり言っている印象もあるかもしれませんが、お経にはとってもたくさんの種類があります。

先日、『自我偈(じがげ)』と呼ばれているお経を書く機会があったので、今日は『自我偈』というお経の中身を見ていこうと思います。

まずは『自我偈(じがげ)』の基本のき。

自我偈というのは、『法華経(=妙法蓮華経)』という長いお経の中の、第十六章『如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)』の後半部分のことです。

この章では、『わたし(=お釈迦さま・仏さま)の寿命は永遠だという真理』について解説されているのですが、前半部分でこの真理について詳しく解説し、後半部分で詩(歌)として、内容のまとめ・おさらいを書いています。

詩ということもあって、実際に自我偈を読んでみるとリズミカルで読みやすく、お経本のパッと見の印象も、漢字が苦手なわたしでも親しみやすい雰囲気があります。

記事の後半にお経そのものも載せますので、視覚的な楽しさ、リズム感を味わってみてください。

それでは、前置きが長くなるのも良くないので、さっそく中身を見てみましょう。

『自我偈』の現代語訳

わたしが仏になってから(つまりわたしが悟りに達してから)、考えられないほどの長い年月がたちました。

その長い長い時間の中で、わたしは常に真実の教えを説き続け、たくさんの人たちを最高の悟りに導いてきました。

わたしが仏になってから現在までは、数え切れない時間が経過しているのです。

すべての生きとし生けるものを救うために、わたしは入滅した(亡くなった)と見せかけましたが、それは方便で、実は死んでなどいないのです。

わたしは常にここにいて、真実の教えを説き続けているのです。

色々な神通力をつかって、間違えた考えに侵されている人には自分の姿が見えないように見せかけているのです。

人々はわたしが死んでしまったと思い、わたしの遺骨を供養し、わたしを慕って、どうにかしてわたしに会いたい、わたしを見たいと渇望することでしょう。

そうすることで、人々の心が信仰心に満ち溢れ、それによって正しい心をもつようになり、穏やかになり、素直に『仏にお会いしたい』という心を持つようになるでしょう。

その時、わたしは他の弟子たちと共に霊鷲山インドにある、お釈迦さまが法華経を説いた場所とされる山)に姿を現すのです。

そして『わたしは常にここにいて、決して死ぬことはない。方便の力を使って、死んではよみがえるとみせかけるのだ。』と教えを説くのです。

もし、仏教を信じる人が他国にいるならば、わたしはそこにも姿をあらわし、最高の教えを説くのです。

人々は、このようなわたしの存在の仕方を知らないで、わたしが死んでしまったと思いこんだのです。

わたしは、生きとし生けるもの全てが苦悩を抱えていることを知っています。

でも、すぐに姿をみせることはせず、人々の信仰心を養わせるのです。

わたしに恋い焦がれ、信仰心が十分に育まれた時、初めてわたしは姿を現して教えを説きます。

わたしの神通力というのは、このようなものなのです。

つまり、わたしは、考えられなほどの昔から現在まで、霊鷲山や他の場所に常に存在し続けているのです。

人々が、この世が苦悩に満ちている、世界が焼けていると感じる時も、私の世界は次のように平穏なのです。

宝石で作られた山ではたくさんの花が咲き、果実の実った樹木がたくさんあるここの場所には、豪華絢爛な建物が建ち並んでいます。

この地では、生きとし生けるものは全員、楽しく幸せに暮らし、

空では神々が音楽を奏で、例えようがないほど美しいマンダラの花が雨のように降りそそぎ、その花は仏やその弟子たち、悟りを求めて努力する他の賢者たちの頭上にも降り掛かります。

わたしの世界である浄土は常にこのような形であるのに、この世は焼き尽くされ、恐ろしく、みじめで、悲しみが散財しているかのように感じている人びとがいます。

彼らは、自分が犯した悪いおこないが原因で、とんでもなく長いあいだずっと、わたし(仏)やその真の教えに出会うことはできないのです。

逆に、心が穏やかで親切で、素直な正直者は、わたしが常にここにいて、真実の法を説いている姿に出会うことができるのです。

こういったことから、ある者は『仏さまは、寿命が無限だとする教えを説かれた』と言い、また別の者は『仏さまになんて、なかなか出会うことはできない』と言うのです。

わたしの智慧の力はこのようなものであり、この智慧の光には限りがありません。わたしの寿命も長く、限りがありません。

これは、わたしが過去生きた世界で正しい修行をしたからなのです。

賢いみなさん、この真理について疑ってはいけません。疑う心を残らず捨てましょう。

わたしの言葉に、偽りがあったことは未だかつてないのです。

(この章の前半で解説した例えのように)優れた医者が、すばらしい方便を使って、毒物を飲んでしまった子どもを助けるために『わたしは死んでしまった』と言ったことが『嘘』だと主張できないことのように、

わたしもまた、いなくなってはいないのに、死んでしまったと見せるのです。わたしも、この世の父親のような存在で、様々な苦しみから全ての生きとし生けるものを救う存在なのです。

わたしが常に姿を現していると、どうしても怠け心からわたしを信じなくなり、様々な欲に埋もれ、悪い境遇に陥ってしまう人が出てきてしまいます。

ですので、わたしは全ての生きとし生けるものそれぞれの境遇にふさわしい方法を考え、様々なかたちで真実の法を説いているのです。

わたしがいつも、このように、『どのようにして生きとし生けるものすべてを悟りに導こうか。』『どのようにして彼らにわたしの教えを伝えようか』と考え、彼らをすみやかに仏にしてあげたいと思っているのです。

優れたお医者さんの例え話

あるところに、とても賢い、優れたお医者さんがいました。

このお医者さんは薬の処方に長けていて、これまでにもたくさんの人々を救ってきました。

彼にはたくさん子どもがいたのですが、ある日、彼が外出中に子どもたちが誤って毒を飲んでしまいました。

子どもたちが毒によってとても苦しみ、倒れ、転げ回っているところに、お医者さんは帰宅しました。

子どもたちは父親の帰宅を喜び、助けを求めます。

数人の子どもたちは父親の言いつけ通りすぐに薬を飲み、完治しました。でも、数人の子どもたちは解毒薬を飲んでくれません。

飲んでしまった毒が身体中にまわってしまい、『この薬は効かない!』と決めつけてしまったからです。

そこで父親は、『子どもたちよ、わたしはもう年老いた、まもなく死んでしまうだろう。今お前たちを苦しめている薬はここに置いておくよ。病気は治り、苦しみは癒える。』そう言い残し、また外出しました。

子どもたちは父親がいなくなったことにとても悲しみ、言いつけを守って薬を飲まなかったことを悔やみました。

そしてその悲しみから、父親が処方してくれた薬への不信感がなくなり、解毒薬を飲みました。

そして、父親は子どもたちが全員完治したという知らせを聞き帰宅し、親子は再会を果たしました。

さて、この話をどう思いますか?この名医は嘘つきとして、非難されるべきでしょうか?

というお話。

いかがでしたか?

これが自我偈(+お医者さんの例え話)でした。

厳密な現代語訳をすると、もっと具体的な数字や詳しい言い回しもあるのですが、今回は読みやすくするために少し省いて紹介しました。

こうしてみると、例えばキリスト教ユダヤ教の聖書のように、『辛いな~』と感じているわたしたちが、心の拠り所としてパラパラめくりたくなるような内容ではないでしょうか。

漢字の羅列に拒否反応を起こしてしまうわたしでも、現代語訳を読んでからお経本を開くと印象が変わります。

しかも、漢字の羅列であるからこその美しい字面も見えてきて、なんというか・・・品の良さというか、美しさというか、そういうものも感じます。

特に、仏さまの世界を表した、赤字で示した部分は心が洗われるような、幸せな気持ちになるのです。

↑個人的に、このBGMで読みたい感じ(笑)

『自我偈』の漢文

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇

常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命

時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅

以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽

我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度

我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰

因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇

常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時

我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳

宝樹多花果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽

曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽

憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁

阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者

則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量

久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量

寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑

当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故

実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者

為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生僑恣心

放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道

随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生

得入無上道 速成就仏身

参考文献

↑とにかくわかりやすい現代語訳とは別に、各品(章)の解説まで掲載されているので理解が深まります。難しい言葉はほぼなく、仏教初心者でも読みやすい本です。

↑上中下巻の内、如来寿量品が掲載されている下巻を参考文献としました。こちらは少し言い回しが難しい部分もありますが、見開き右ページには漢文と書き下し文・左ページには現代語訳が載っていて、構成がとてもわかりやすかったです。